たけのこ (筍) 料理の店 京都 うお嘉

〒610-1121 京都市西京区大原野上里北ノ町1262
営業時間 : 11時30分~22時00分(入店は20時まで)
定休日 : 月~木曜日の間で不定休

たけのこ日記


2025年 05月の記事一覧

春が終わる音を聞いた日

春が終わる音を聞いた日

――竹の子料理屋「うお嘉」、しばしの休業によせて

竹林の奥から吹く春の風は、どこか湿り気を含んでいて、土の中に眠っていた何かをそっと起こす気配がある。
それはたけのこかもしれないし、私の記憶そのものだったのかもしれない。

令和七年五月二十五日、私は五代目として務めてきた「うお嘉」の火を、ひとまず落とすことにした。
明治から百年以上にわたって続いてきた竹の子料理屋である。
京都・洛西の小さな山裾で、代々「旬」を信じてきた家業だった。

祖父と父の背中を見て育ち、春が近づくと魚の仕入れの準備より先に天候や竹林農家の堀り具合を確かめるのが、いつの間にか私の日常になっていた。
「竹の子は土からでよる、そやさけぇ 花の咲く具合でわかる。土筆や草花と一緒にでよるんや。」
祖父がそう言っていたように、自然の天候は全ての生き物に等しく、その恵みを与える。土の中は目には見えないが、その恵みに木々や草花は連動している。そして、人も等しくあると思い信じていた、

ただ、人間社会は近ごろ違うようだ。少しづつ、少しづつ、その連動から外れてったように思える。

実際、日本社会は変貌している。

飲食サービス業界の人手は減り、物流は高騰し、食材そのものが手に入らなくなり、生産供給が中止されることも伝統的食ほど増えている。
それらを乗り越えるために代替品や加工や工夫もしたが、もっと本質的な問題が、ひたひたと迫っていた気がする。

それは、「季節」や「風土」というものに対する、人々の感受性の鈍化だった。

誰もが「変わらなきゃいけない」と言い、
グローバル化やSDGsという“正しさ”を疑わずに受け入れていく流れの中で、
私たちのような“風土に耳をすます商い”は、次第に声を失っていった。

本来「持続可能性」とは、地域の知恵と自然との対話を続けることだったのではないか。
けれど、いつの間にかそれは「数字で測れること」や「国際基準に合うこと」へとすり替わっていった。

たけのこは、毎年同じように顔を出すわけじゃない。
風の向き、雨の量、朝晩の寒暖、すべてが揃って初めて、風土から“答え”が返ってくる。
それはAIの予測や、スマホのレシピ検索には映らない「人の感性の世界」だ。

私は、それを信じて料理をしてきた。
そして、その揺らぎこそが、日本の文化を支えてきたと思っている。

ある日、厨房で鍋の火を落としたとき、ふと心の中でこう呟いた。

「ええこの春の時は、もう戻らんのやろな」

それは、味覚の話だけじゃない。
日本人の感性そのものが、静かに沈んでいく音のひびきへの、私なりの別れの言葉だった。

最近、芥川賞を受賞した若い作家の小説を読むたびに、そうした喪失の空気を感じる。
私たちが忘れてしまった何かが、登場人物の沈黙の中に確かに息づいている。
そして、それは料理屋としての私自身にもあったのだと気づかされる。

それでも、もし誰かの記憶の中に、
竹林の青い匂いや、湯気の向こうに漂う木の芽の香りが残っているのなら、
「うお嘉」の春はまだ終わっていない。
そう思いたい。

文化は、インスタ映えの派手な動画、言葉や制度で残るものではない。
それは、ふとしたときに蘇る「香り」や「舌ざわり」や「記憶の感触」なのだ。

最後に、この場を借りて、これまで「うお嘉」を支えてくださったすべての方々に、心より御礼申し上げたい。
皆様の感性と味覚が、私たちの料理を意味あるものにしてくれました。

合掌。

令和七年五月二十五日
小松莞鳴

たけのこ黙示録

たけのこ黙示録

数年前に亡くなった親父が、よくこぼしていた言葉がある。

「砂地の竹林から採れるたけのこは美味しくない。世間様は、たけのこはどれも同じだと思っている。色味が白ければ白いほど(値段が)高い。でもな、竹林がどんな土質を持っているかで、たけのこの味は全然違ってくるんや。
なのに、売っているほうも買っているほうも、見た目ばかりを重視して値段をつけたがる。だから、本当に美味しいたけのこを選ぶ力が、だんだんなくなってきておる。そして、味わう力も、どんどんどんどん落ちてきてる。」

長年にわたり、子どもの頃からたけのこを知る男が語る、説得力のある言葉だった。
確かに、見た目は同じように見えても、竹やぶの生産場所や土質によって、たけのこの味や固さ(繊維質)は大きく異なる。同じ生産者であっても、竹やぶの場所が違えば、すべてが異なるのだ。たけのこは、千差万別の素材なのである——親父はそう言い残していた。

京都の洛西(乙訓)と呼ばれるエリアでも、それぞれの細かな地域ごとに、たけのこの質は異なる。奥海印寺、小塩、上里、塚原(大枝)、物集女などは、昔から良質なたけのこが採れる土地である。

美食家として知られる北大路魯山人も、このエリアのたけのこを絶賛しており、現地に赴いて味わうことを強く薦めていた。

近ごろは「山城」エリアのたけのこが、ものを知らぬ都会人には人気のようだが、山城地域は、親父の言うところの“砂地の多く含まれる竹林エリア”にあたる。もし魯山人が今も生きていれば、きっと亡き父と同様に、コメントするだろう。

かの先人たちの言葉が正しければ、
味覚に関しては、人間はおそらく退化しているのかもしれない。

私たちは常に、社会や科学は進歩していると信じ込んでいるが、本来、進化させるべき感性や、維持すべき感覚への意識が、ぼやけてしまっているように思える。
「美味しいたけのこの味がわからない」——それはつまり、「美味しさの記憶そのものが、失われつつある」のかもしれない。

「伝統」や「文化」を守ると言うけれど、
本当に守らなければならないのは、己の五感であり、
日本人としての“感受性”や“感性”なのではないか。

「日本人、日本人」とSNSで声高に叫ぶ、馬鹿の一つ覚えのような者も多いが、はたして彼らは、自分たちが本当の“日本人の本質”を知っているのだろうか?
それは、甚だ疑わしい。

夏目漱石や森鷗外は、「個人」というものを小説で深く掘り下げたが、あれは結局、西洋思想の押し売りのようなものではなかったか。
——「まぁ、そりゃおかしくもなるわな」
そんな魯山人のような声が、どこか耳にこだまする。

日本には、古来より“言葉”を神秘的に扱う文化がある。
「言霊」として、別格の存在とみなされてきた。
それは“秘する”ものであり、“おおっぴら”にするようなものではない。

「もののあはれ」とは、“無”を意味するものであって、形にすべきものではない。

こうして語っている僕自身も、すでに“もののあはれ”ではない。
単なる、哀れな現代人にすぎない。

そのことを、どうか忘れないでいただきたい。

日本人である皆様へ——
このことを、どうか心に留めておいていただきたい。

令和七年五月十八日
小松莞鳴

今旬のお料理:たけのこ(筍)料理
今旬のお料理 たけのこ(筍)料理
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うお嘉で味わう旬の味覚

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たけのこ(筍)料理の老舗京都 うお嘉

〒610-1121
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営業時間 :
11時30分~22時00分
(入店は20時まで)

定休日 :
月~木曜日の間で不定休

TEL:075-331-0029
FAX:075-331-2775

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  • ■JR京都駅より約30分(最寄り駅:
    JR向日町駅、阪急 東向日駅)

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